感情のコントロールなんてしなくていい

みなせん、いかがお過ごしですか? 以前の記事でも触れたように、私はこの春から会社で働き始めましたが、今は勉強の毎日で、一日一日を必死に乗り切っているような感じです😅

 

このブログも「更新したいな~」と思いつつ、なかなか時間が取れていませんでしたが、今日はなんだか久しぶりにここに来たいと思いました。それに、仕事を終えて夕食の支度をしている時、ふとタイトルに書いた言葉が頭に思い浮かび、それを皆さんにシェアしたいなと思ったのです。

 

みなさんは、自分が抱いた感情に対して「こんなこと思っちゃダメ」と思うことはありますか? 私も以前は、落ち込んだときに「早く切り替えなきゃ!」と自分を叱ることがよくありました。

私が息苦しいなと感じるのは、社会では、悲しみや怒り、落ち込む気持ち、嫉妬といった気持ちには「ネガティブ」というラベルが貼られ、そうした気持ちはなるべく早く「ポジティブ」な気持ちに切り替えようと叫ばれていることです。

 

私が気が付いたのは、自分の感情を否定すればするほど、かえってつらくなるということでした。ただでさえ悲しかったり、怒っていたり、寂しかったりするのに、自分自身がそのことを「そんな気持ち抱いたらダメでしょ!」と叱ってきたら、感情を認めてもらえなかったという事実にまた、悲しくなりませんか?

 

実は今日、私の研修期間の学習に遅れが出て、不安や焦り、情けなさで、お仕事が終わった後に涙がぽろぽろこぼれてきました。以前の私なら「早く切り替えなきゃ!」「泣くなんて弱い」という言葉を自分にかけていたかもしれませんが、大学時代の継続的なカウンセリングを経た今は、素直に泣きたいだけ泣きじゃくる(もちろん家でですが😅)ことができました。しかも、思いっきり悲しんで、不安になって、泣いた後は驚くほどすぐに、雲が晴れたような、すっきりとした気持ちになりました

 

「感情をコントロールする」という考え方は、合理的に見えて、実は非合理的で傲慢な考え方なのではないか? と私は思っています。もし感情が理性でコントロールできてしまうもの、つまり意図的に操作できるものだったなら、私はなんだか怖いなと思います。感情は、ごまかすことのできない素直な反応であり、理性で手なずけることが出来ず、「非合理」なものであるべきではないでしょうか?

 

この記事が、私と同じように、「ネガティブな感情は素早く切り替えよう!」という言説に息苦しさを感じている方に届けばいいなと思います。感情は否定するためにあるのではなく、「素直に感じる」ためだけにあるのです😉

やさしさを与える先は自分で選ぶ

 実は私は今、地方の実家に滞在しています。あと数日で離れますが、先月からほぼ11ヵ月間とどまっていました。

 来たばかりのころは、久しぶりに会えたこともあり、私と他の家族(両親・祖父母・弟)は好意的に接していましが、ここ2週間くらいになって、以前感じていたこの家族の歪んだ部分に触れ、この場所にいるのが苦痛になってきました。帰ることができればいいのですが、私の家族は一家で家業を営んでいるので、どうしても私の手伝いが必要な忙しい日が終わるまでは、帰れないのです(無理やり帰ると、もっと面倒なことになると思うので……)。

 私を手足のようにこき使い、ぞんざいに物事を頼みつける祖母、祖母の言いなり・当たり前のことを女性である私にだけ偉そうに説教する父(後者の行為は「マンスプレイニング」と呼ばれるそうです)、4月から社会人になる私に「あなたの体力では会社のお荷物。」と言い放った母。愚痴のようになって申し訳ないのですが💦、今日まで私は「自分さえ耐えれば平和が保たれる」と信じて無理やり家事と仕事を頑張り、彼らとの関係性をベターにしようと、様々な心掛けや態度を試しました。

 しかし、どんなに私が心をすり減らそうと、「やめてほしい」と伝えようと、彼らの態度が変わることはありませんでした。私も大きなストレスを抱え、そのはけ口を恋人に求めました。

 昨日の夜も、父の侮辱的なマンスプレイニングが頭にこびりつき、眠れなかったので彼に電話しました。最近は毎晩、家族の侮辱的な言動で悔しくてなかなか眠れず、彼に電話しています。彼は辛抱強く聞いてくれ、私が「ごめんね」といっても「謝る必要ないよ」と言ってくれていますが、彼も働いた後で明らかに疲労しており、私もそのことを分かっていながらも、八つ当たりのような態度が抑えられませんでした。

 このことについて、今日ふと「私はなぜ、自分のやさしさを、自分を大切にしてくれる人ではなく、ぞんざいに扱う人々のために割いているのだろう」と思いました。私は「やさしさ」を「誰にでも同じだけやさしくすること」だと思ってきましたが、自分のエネルギー(体力・精神)には限りがある以上、そんなことは不可能です。学校教育でも「誰にでも平等に優しく」というメッセージに頻繁に触れますが、それが時に真面目・優しすぎる子供たちを苦しめているのではないでしょうか。

 自分が一日に使えるエネルギーには限りがあることを自覚し、優しさを誰にあげるかを自分で選ぶ。そしてなによりも、この大切な自分にやさしさを送る必要もあるでしょう。「自分さえ我慢すれば」と思っている時、その状況はすでに平和ではありません。なぜなら、すでにあなたが悲しい思いをしているから。「優しさを与える先は自分で選ぶ」という考え方が、どなたかの力やヒントになればいいなと思います。

「感謝」を強制する社会

 

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  卒業シーズンになってきましたが、この時期に頻繁に耳にする言葉に「感謝」があります。私自身のことを振り返ってみても、小学生の頃からすでに、6年生が卒業するシーズンになると「6年生に感謝の気持ちを伝えよう」という企画が始まり(それも下級生自身から出るのではなく、教師・学校側に設定される)、5年生は「6年生を送る会」を開くための準備に追われます。私は5年生の時、感謝を持つほどの知り合いを6年生の中に持っていなかったので、その時点で何となく大人の偽善を感じていました。

 

 送られる側の6年生になると、今度は先生や親に対する感謝を強制されます。私の場合は、家族自身から「○○君は家に帰ってすぐに感謝の気持ちを親に伝えたそうだよ。お前もなにか一言ないのかい」と言われ、子供ながらにうんざりした記憶があります。オリンピックを見ていても、やはり「感謝の気持ちでいっぱいです」という言葉をよく聞きます。私が通っていた小学校・中学校でも、イベントのスローガンや月間の目標にはよく「感謝」の言葉が入りました。

 

 私はこうした状況に、「感謝を強制する社会」の存在、そしてその息苦しさを強く感じます。書くまでもないことですが、感謝したかったらすればいいし、そのような気持ちが湧かなくても全く問題ありませんよね? 私が不思議に思うのは、学校を修了するのも、オリンピックで結果を出すのも、もちろん周囲の助けはあるのでしょうが、なにより本人の行動がなければ実現しなかったはずです。その成功は、なによりも「自分自身の頑張りあってこそ」のものです。にもかかわらず「他者への感謝」を強制されることによって、私たちは「私、よく頑張ったね」と自分の頑張りを認め、ねぎらうことのよろこびを去勢されているのではないかと思います。

 

 私もこの3月で大学を卒業しますが、自分の学生生活を振り返ると、本当にたくさんもがいて、挑戦して、よく頑張ったなあと心から思います。これまでの卒業では、自分をねぎらう前に、義務感から他人に「感謝」をとりあえず伝えてきましたが、再来週の卒業の日はなによりも先に、自分に「よくやったねっ!」と言ってあげたいです😄

自分の声と他者の声を区別する

みなさん、いかがお過ごしですか? 私は夏休みも1か月を過ぎたことを知り、少し焦り気味です……😅
私がこの夏休みに取り組んでいることの一つに、「自分の傷ついた過去を癒す」というものがあります。今日はその中で気が付いたことを、みなさんにもシェアしますね😉

「家族によって傷ついた」という事実を認められなかった

私の「傷ついた過去」というのは、実は家族とのことです。大学に入学し、家族のもとを離れるまで、私は「家族に愛されて育ってきた」ということに一つも疑問を抱いていませんでした。ところが、彼らのもとを離れ、大学でもジェンダーについて学ぶうちに、「私が小さいころに家族から受けていた扱いは、おかしかったのではないか」と少しずつ思うようになりました。

私の家族は、彼らなりに愛情を注いではくれました。悩んだときにアドバイスをくれたことや、習い事をさせてくれたこと、成長の節目ごとにくれた手紙、留学を全面的に支援してくれたこと、今も「お金で諦めることがないように」と充分仕送りをしてくれること……

社会では、家族の非を指摘することは暗黙のうちに「悪いこと」とされているように感じます。「親のすねをかじっておきながら文句を言うなんて」という言説もSNSなどでよく見られます。ただ、こうした、「家族の愛にあふれた絆」を妄信するような風潮に、私は息苦しさと危機感を覚えています。

血がつながっていても、所詮は他人です。むしろ家族という近い間柄だからこそ起こる、人権の侵害もあります。それが「家族だから」という理由で「しつけの一環」とされたり、「家族を責めるなんて」と糾弾されたりする風潮は、「存在する問題をなかったことにしている」という点で、なによりも傷ついた当事者に対して暴力的であり、また非建設的でもあると感じます。

私自身も、こうした風潮を少なからず内面化しているので、家族から受けた扱いで自分が傷ついているという事実をなかなか認められませんでした。

しかし、幼少期にほぼ毎日母親にはたかれていたこと、話しかけても邪険に扱われたこと、ご飯も支度も「早くしなさい」と常に急かされていたこと、両親に「親の言うことを聞け」と度々言われたこと、祖母に「家の手伝いに不向き」とスカートをはくことを禁止されたこと、酔っ払った祖父が愚痴と一緒に私(男性である弟にはしない)に絡んでくること……。こうした記憶が度々私を苦しい気持ちにさせました。


私が苦しんでいたのは、こうした記憶そのものに加え、そこで「自分が傷ついた」ということを認められなかったからでした。過去の記事「『負け』を認めるのは『勝ち』の始まり」にも通じますが、私の「傷ついた過去を癒す」という取り組みは、「過去の家族の行為は私の人権を侵害するものだった」こと、そして「私は傷ついた」という事実を認めることから始まりました。

幼少期の母の声を、「自分の声」だと思い込んでいた

そして前置きがかなり長くなってしまいましたが😅、記事のタイトルに書いた「自分の声と他者の声を区別する」というのは、この「傷ついた過去を癒す」取組で最近気が付いたことです。

例えば、他の記事(「未来には未来の『今』があるから、安心して今の『今」を味わっていい」)でも書きましたが、私の癖として「今に集中できない」というものがあります。なにをしていても、「早く、早くしないと」と自分を急かしてしまうのです。

でも、「この思考パターンはいつから・どこから始まったのだろう?」という問いを立て、ノートに思い当たる記憶を書いていると、「幼少期に母親から常に急かされていたこと」にたどり着きました。
「早く、早く」という声は自分自身のものだと疑いもしませんでしたが、それは幼少期の母の声だったのだと気が付きました

別の私の思考の癖として、「自分が好きなことをすると罪悪感を感じる」というものがあります。これも思い当たる記憶をノートに書き出すと、「家で好きなこと〈読書や趣味のエレクトーン〉をしていると『手伝いをしなさい』と怒られていた」記憶や、上にも書いた「好きな服を着ていると『手伝いに不向き』と服装を制限された」記憶に行き当たりました。

自分を動かしているのは、自分自身の声だけではありません。過去に家族に言われた言葉、学校で友達や先生に言われた言葉、そしてテレビやSNSから聞こえる「社会」の言葉も、意識せずとも内面化されています。

もちろん、自分自身を貫く声は多様で当然です。ただ、もし私のように、自分の人生の主導権さえもが他者の声に奪われている方がいたら、「これは自分自身の声なのか?」という問いを思い出してほしいな、と思います

自分を動かしている声が、果たして自分自身の声(=本音)なのか、それとも自分の声だと思い込んでいる他者の声この問いが、今息苦しさを感じている方がそこから抜け出すきっかけになればいいなと思います。

休むことは、「活動することの付録」ではない

みなさん、いかがお過ごしですか? 私は今日、丸一日「休むこと」に集中しました。集中といっても、力を入れて肩が凝るようなものではなく、むしろ「余計な力を抜く」というイメージです。具体的には、

・情報の摂取を意識的に減らす(スマホの電源をオフにする、公園でのんびりするなど)

・休みたかったら躊躇なくお昼寝をする

・いつもより早くお布団に入る

という感じです。

最近、エネルギーはもうとっくに切れているのに、気持ちだけが焦って空回りしているような感覚がありました。私にとって「休むこと=悪」という思い込みは根強いものですが、今日は「休む練習」のつもりで思い切って1日をとりました。
そのような今日を過ごす中で、ふとタイトルに書いた言葉が頭に浮かんだので、みなさんにもシェアしますね。

「休むこと=悪」とする価値観はいつから?

私たちの社会においては、「仕事の中に休みがある」システムが力を持っています。私たちには小学校からすでに、「皆勤賞」のプレッシャーがかけられます。一人一人、体力も体質もちがうはずなのに、「欠席しないこと」を悪い意味で平等に押し付けられます。しかも、この「皆勤賞」というシステムは、多くの場合中学、高校までつきまといます。

小学校から高校卒業まで、12年間も「欠席=悪」とする組織に属するなかで形成されるのは、やはり「休むこと=悪」という価値観です。「夜があるから朝が来る」ように、本当は「休息があるから活動ができる」はずですが、現在の社会は、活動することだけを過剰評価しているような気がします。

サブタイトルに「見えないものを照らす場所」とある通り、私がこのブログを通してお伝えしたいのは、光だけが注目されがちな社会の中で、「影」という「見えないけれどあるもの」の存在に光を当てることです。今回の記事で言えば、社会が「活動(大抵が日中)」だけを評価しがちだとすれば、私が伝えたいことは、それを支えている「休息(夜や影と関連する)もきちんと評価することについてです。

「休息は活動の付録」という扱いを反転させてみる

そして前置きが長くなってしまいましたが😅、上記の価値観から抜け出すことに効果的な考え方が、今回タイトルに書いたものです。休息は活動の「付録」という考え方を反転させ、一度「休みの合間に活動を入れる」と考えてみてはどうでしょうか

実際、私もこう考えてみると、かえって活動自体に対する心理的なハードルが下がり、昨日までよりもずっと楽に、するべきことに着手できるようになったと感じます。

他の記事でも何度かこの言葉を出しましたが、私は「全ては循環している」と考えています。今回の記事で言えば、「日中(光)」の活動だけに焦点が当てられている限り、循環が滞るので、いつかは行き詰まってしまいます。そこで、休息のための「夜(影)」も同じように評価することで、滞っていた循環は再び回り出します。

なんのこっちゃ、という話になってしまったかもしれませんが😭、「光があるなら影もある」ということ、そして「お互いに価値の優劣はなく、同等に補完し合っている」ということは、忘れるたびに思い出したい真理です。影は見えにくいものですが、「見えない」からと言って「存在しない」ということではありません。「見えにくい」からこそ眼をこらし、見えやすい光の部分と同等に評価していく必要があるのだと私は考えています。

未来には未来の「今」があるから、安心して今の「今」を味わっていい

「未来」を考えすぎて「今」を取りこぼすこと

みなさん、いかがお過ごしですか? 先日の記事(「『負け』を認めることは『勝ち』のはじまり」)でも書きましたが、私は今大学生活最後の夏休みです。この休みに私が意識していることの1つに、「『今』に集中する」ということがあります。

高校生くらいのころから、私にとって「今」に集中することは難しいことになってしまいました。何をしていても、「もっと将来のために有意義なことがあるんじゃないか」という思いが頭を離れず、漠然とした焦りが募ります。さらには、「今」に集中することに罪悪感すら覚えるようにもなりました。常に「未来」や「将来」のことを考えていないと、なんだか不安――という気がするのです。みなさんはそんなこと、ありますか?

タイトルに書いた言葉がふと浮かんだのは、今日の朝、朝ごはんの準備をしている時でした。料理においても、ある1つの動作をしながら、目線はすでに次の動作のために違う方を向いているということが私にはよくあります。
例えば、戸棚からコップを取り出していながらも、目線は「今」取り出しているコップではなく、コップに水を入れるという少し先の「未来」のために、すでに蛇口の方へに向けられています。一見、効率的にてきぱきと作業を進めているように見えますが、実際はつかんだはずのコップを落としてしまうなど、結局なにかをし損ねてしまうことの方が多くあります

時間は「今」の連続でしかない

タイトルの言葉がふと頭に浮かんだ時、私は冷蔵庫から出したお皿の感触を感じようとしていました(今自分で書いていて、「私どういう修行してるんだろ」と思いました😅)。「お皿を手に持つ」という「今」の動作に集中しようとしていたのです。そうしてふと気が付いたのは、「あ、今の『今』と同じように、未来には未来の『今』があるんだ」ということでした。

私にとって、「今」はどんどん逃げていくものでした。だからこそ、置いて行かれないように、先へ先へと目線を必死で移動させていたのだと思います。でも、今でも未来でも、やっぱりその時々には「今」しかないのです。「今は逃げていくものではなく、ずっと続いていくものでした。

そして、私が少しずつ「今」に意識を向けるようになって気が付いたのは、「今」をどれだけ多くのものが構成しているかということでした。今朝の例でいえば、お皿を持って移動している「今」気が付くのは、お皿の冷たさや硬さ、持つ手に入る力、フローリングの床を歩く少し汗ばんだ足、自分の呼吸、指に触れるラップの柔らかさ……といった様々な事象です。「未来 > 今」というように私は「今」をないがしろにしていましたが、いったん意識を向けてみれば、そのないがしろにしていた「今」がいかに豊かだったか、ということを知りました。

時間は「今」の連続でしかありません。今から見れば「未来」であっても、その時がくれば、それはやはり「今」でしかないのです。未来には未来の「今」が用意されているので、今は今のために用意された「今」という瞬間を味わっていいのだと思います

なんだか今日はややこしい話になってしまいましたが😅、「未来」のために「今」を犠牲にして苦しい思いをしている方に届いたらいいな、と思います。一緒に「今」を楽しんでいきましょう🥰

「負け」を認めることは「勝ち」のはじまり

 みなさん、お久しぶりです……! 最後の投稿から5カ月も経ってしまいましたが、いかがお過ごしでしたでしょうか?

最後に投稿した3月はまだ大学3年でしたが、今は4年の夏休みです。この5カ月間は就職活動と大学のゼミで、スケジュール上でもそうでしたが、それ以上に心の余裕がありませんでした……😓 ブログのことが気になりつつ、「まだ就活が終わっていないのに自分の好きなことをするなんてダメ」という罪悪感から、更新することがなかなかできませんでした。

私は3年の2月から就職活動に着手して、7月初旬に内定を得て就活を終えました。この5カ月間、就職活動や大学での授業を通して新しく気が付いたことや考えたことがあるので、これからまた少しずつここで皆さんにシェアしていきたいな、と思います。

失った時間の存在を認めることへの「怖さ」

私が就活中に気づいたことの1つは、「遅れた分は意外とすぐに取り戻せる」ということでした。就活を始めた2月は「きっと他の大学生よりも遅いタイミングだろうな……」と失った時間への罪悪感でいっぱいでした。でも、ESを書いたり就活エージェントに登録してみたりするなど、いったん走り出してみれば、自然と失った時間への後悔はなくなっていました。
このブログも、実は再開することに怖さもありました。というのも、久しぶりにブログにアクセスするためには、更新しなかった5カ月間を自覚する必要があったからです。失った時間の存在を認めるのが怖くて、夏休みに入ってもなかなかアクセスできずにいました。しかし、今日思い切ってサイトを訪れ、こうして書いていると、むしろ気持ちは軽くなっていきます。一番苦しいのは、失った時間を認める瞬間ではなく、認めることをずるずると拒んでいる時間だったのです

「ネガティブ」と「ポジティブ」は常に循環している

私たちの社会では、自分の落ち度を認めることは、一種の「弱さ」のように思われている部分が大きいように思います。上に書いたように、私自身も「時間を無駄にした自分」を認めることはすなわち負けだと思っていました。
しかし、「負け」を認めた私は今、ずっとやりたかったブログの更新ができています。就職活動でも、「これまで就活に着手できなかった自分」の存在を認めたからこそ、内定に向けて具体的な行動を始めることができました。「負け」のように思われることを認めることは、実は負けたことにはなりません。それは、実は「勝ち」(※なにかを倒すような「勝ち」ではなく、より自分らしい行動を選べるようになることを指しています)の始まりなのです。「負け」を認められた時点で「勝ち」でもあるのだと思います。

私がこの5カ月間に気が付いたことの1つは、このように「ネガティブとポジティブは常に循環している」ということでした。上の例でいえば、「負け」(ネガ)を認めることは「勝ち」(ポジ)の入り口になっています。
絶対的な「ネガティブ」も「ポジティブ」もない。ある同一の事柄や存在であっても、その性質は常に「ネガ」であると同時に「ポジ」でもあるのです。社会ではネガティブに見えるものを忌み嫌う風潮が強いように感じますが、上に書いたことを踏まえると、それは恐れるべきものではまったくなかったのだな、と思います。