勝ち負けではなく色の違い


みなさんは、お仕事や学校で、自分より輝いているように見える人に嫉妬したことはありますが? 私は最近、お仕事でそんな場面があり、今はその気持ちと折り合いをつけようとしているところです。。

私は、その人の良いところばかりが見え、それを自分の悪いところと比べてしまいます。みなさんが自分と他人を比較するときも、無意識にそのようにしていることが多いのではないでしょうか。

 

ただ、今日この感情について考えていた時、ふと「勝ち負けではなく、単なる色の違いなのではないか」ということが頭に浮かんできました。

私の仕事には、私にしか出せない色があり、あの人にもあの人にしか出せない色がある。「赤と青はどちらが優れているか?」という質問をされても、そこには単なる「違い」しかなく、優劣はないので答えに困ってしまうと思います。

私が赤で、あの人が青。赤という色でしか表現できないことがあり、青という色でしか描けないものもある。

あの人が輝いているということは、イコールで自分自身も自分のやり方で輝ける(すでに輝いている)ということを指し示しているとさえ言えるのではないでしょうか。

 

このことに気づいた今日以降は、自分以外の誰かが輝いていたら、「自分は何色で今輝いているだろう?」というように、自分自身がすでに持っている色、その輝きに目を向けてあげたいなと思います。

頑張ってはいけない環境もある。

私のブログの読者の方には、何となく頑張り屋さんが多いような気がしています。タイトルに書いた言葉は、今日の朝、ふと気が付いたことですが、この言葉を伝えるべき方がいるような気がして、朝からこの文章を書いています。

 

私は今の職場で、実はうつ病に罹ってしまいました。まだ2年目ではありますが、多くのタスクを短時間で終わらせなければならないこと、それが出来ずに先輩から厳しい叱責をもらうこと、もちろんそれが業務上必要な指摘であればいいのですが、毎日のように必要以上に急かされ、「なんでまだ終わってないの?」「この時間なにしてたの?」と言われ続けること、そして、今はどのタスクをしていても先輩の声が脳内で再生され、何も手に付かないこと。

 

時間が経てば業務にも慣れ、先輩のきつい態度にも慣れると思って頑張ってきましたが、頑張った末に陥ったのは、自分の心が壊れてしまうという状況でした。頭が重く、常に自分の欠点が目につき、時には「こんなにつらいならいっそ終わらせてしまった方が楽なのではないか」と思うこともあります。

 

本配属から1年間、とにかくがむしゃらに毎日頑張ってきました。でも、うつ病になり、頭が働かず、時には涙が止まらず、時には「死にたい」とすら思うようになってやっと気が付いたのは、「頑張ってはいけない環境もあるのだ」ということでした。

 

これまでは、「頑張れば報われる」という公式でやってきましたし、それで通ってきました。でも、頑張ることが、あえて言えば「不正解」な状況もあるのだと、24年間生きてきて初めて知りました。

 

これを読んでいる方の中に、もし自分の心を無視して頑張り続けている方がいたら、その頑張り方を見直してほしいと伝えたいです。見直すなどという生易しいものではなく、いったん頑張るのをやめたってかまいません。その状況で頑張ってはいけません。

 

少し強い書き方になってしまい、ごめんなさい。同じ境遇の方を想像してこのような描き方になってしまいました。必要な方に、私の言葉が届くと信じています。

"Save yourself before you help someone." (誰かを助ける前にまず自分を護りなさい)

つい最近、インド人の恋人と話している時、私の口からはこんな言葉が出てきていました。私もそのような傾向が否定できないのですが、彼もまた、自分を犠牲にして誰かを助けがちなところがあり、その時に出た言葉でした。

 

正直、こんな言葉が自分の口から出てくることが意外でした。上に書いたように、私自身も、自分を大切にすることがあまり得意ではないからです。

 

何となく、この言葉は、自分以外の「何か」が、私の耳に聞かせるために、私の口を借りてこの言葉を降ろしてきたような気さえしました。

 

"Save yourself before you help someone." (誰かを助ける前にまず自分を護りなさい)

私以外にも、この言葉が必要な人が少なからずいるような気がして、今日ここに書いています。まずは自分を護る必要があるあなたに、この言葉が届きますように。

脱線した道こそ本線

Goran HorvatによるPixabayからの画像


みなさんは、今の自分が進んでいる道は自分が思い描いていた通りの道だと感じているでしょうか? 実際は、「こんなはずではなかったのだけどな……」という不本意な気持ちをお持ちの方も、少なからずいらっしゃるのではないかと思います。

 

実は私もそのうちの一人で、現在のお仕事は、周囲の人に恵まれているとは思いますが、仕事内容は自分の育った環境や好きなこと、大学で学んだことを活かせる職種ではありません。

 

ただ、最近思うようになったのは、「脱線した道こそ本線ではないか?」ということです。大学で受けた講義を思い出すと、教授のどんどん脱線(というより派生)していく話の中に、一直線に目的に向かうような話では決して聞くことのできなかったであろう真理が含まれていることが毎回のようにありました。

 

自分の思い描いていた通りの、夢や目標に向かう一直線の道など実は存在しておらず、すべては「脱線」が「本線」になっていくのではないかとすら思えてきます。

もちろん、思い通りにならないことに歯がゆかったり、満たされない思いを抱えることは誰もにあると思いますが、「脱線」しても何度でも軌道修正すればいいのですし、脱線したからこそ、自分がやりたかったことに戻った時、脱線した時の経験が大いに活きることもあるのではないかと思います。「脱線」は「本線」の敵ではなく、実はお互いに補い合うものなのではないでしょうか。

 

私も、今は自分の好きなことを仕事に出来ているわけではありませんが、こういう時期があってもいいのかなと思っています。皆さんの中にももし同じ境遇の方がいらっしゃったら、脱線を直ちに「×(バツ)」とするより、脱線することの豊かさをお互いに感じられたらいいなと思います。

タロットの意志を感じた日


私がタロット占いを始めてから2年が経とうとしていますが、今までで最も驚いた占い中の出来事は、明らかにメッセージ性のあるカードが、意志を持ったような飛び出し方で現れたことでした。

 

その出来事が起こったのは、大学の卒業式前夜のことでした。特に役割などはなく、ただ出席すれば良かったのですが、スケジュールが色々と詰まっていて少し不安だったので、「明日の卒業式で気を付けることと、アドバイスをください」という問いでタロットカードを切ることにしました。

 

カードをクロスの上でシャッフルしたあと、カードの束を手にもってトランプのように切っていたのですが、その時、1枚のカードが飛び出しました。

タロット占いでは、シャッフル中に飛び出すカードを「ジャンプカード」または「ジャンピングカード」と呼ぶそうで、偶然に見えても、そのように示されたカードにも意味があるとされています。私も占い中にカードが飛び出すことはそれまでもたくさん経験していましたが、その時の飛び出し方は、まさにカードが意志を持ったとしか思えないものでした。それは、ヒュルヒュルヒュルという音を立てて、座っている私の目線より高い位置を回転しながら舞っていきました。

私も「なにこの飛び方⁉」とびっくりしているうちに、カードはクロスの左上に、正位置でピタッと着地しました。

 

正位置で着地したカードを見て、私は思わず絶句しました。というのも、それは「世界」のカードだったからです。

「世界」のカードは、物事の完成を表します、大学の卒業式を明日に控えた私には、「世界」のカードが飛び出し、正位置で表れたことが、カードからの「卒業おめでとう」というあまりにもはっきりしたメッセージに思えてなりませんでした。祝福されているようでとても嬉しかったのと同時に、その場に自分以外の意志が存在していることを感じ、少し怖くもなりました……😅

 

下にお示ししているのは、その時に撮った写真です。左上にあるのが当の飛び出した「世界」のカードで、少し触ってしまったのですが、位置と向きはカードが着地したほぼそのままの状態です(ちなみに、右下の3枚のカードが、上記のジャンピングが起こった後に、改めて私の問い「明日の卒業式で気を付けること・アドバイス」に対して引いたカードです)。

 

この出来事で、カードはもの言わぬ占いの道具ではなく、対話する相手なのだと感じました。カードをシャッフルするとき、カードを読むとき、彼らの「声」を聴きとるつもりでリーディングをすれば、彼らも応えてくれるように、さらに豊かなインスピレーションを与えてくれるのではないかと思います。

 

 

 

 

タロットから聞こえる音

 

※画像はillustACという無料画像サイトより。

タロットリーディングをする上で、「あまり言われることはないものの、これは重要なのではないか?」と思える視点を最近見つけました。それは、「カードからどんな音が聞こえそうか?」という視点です。

 

このことを発見したのは、仕事での研修について、タロットリーディングを行った時のことでした。研修中に、チームで取り組む課題があったのですが、メンバー同士がお互いに雰囲気を読みすぎて、話し合いが沈黙で滞ってしまうことが多くありました。私はこの状況に気を揉み、自分から積極的に話をまわすようにしてみたのですが、結果として私だけが話して、空回りしているような感じがしました。

タロットリーディングを行ったのは、「この状況(チームの話し合いが沈黙で進まない)を変えるには、どうしたらいいか?」というヒントをもらうためでした。「ヘキサグラム」という、相手(この場合はチーム)と自分の相性を見るスプレッドを使ったのですが、「自分の気持ち」が出るポジションに、「ワンドの5」の「逆位置」が出ました(この記事につけた画像が、そのカードです)。

 

このカードは正位置(カードがまっすぐの状態で出ていること)では「仲間もしくはライバルと切磋琢磨しながら奮闘する」という状況を表します。逆位置の読み方としては、「(正位置の意味がネガティブに出て)闘いすぎる=相手を打ち負かす、やりたい放題、収拾が付かない」などがありますが、私にとっては、「カードの中の棍棒(ワンド)がかみ合わず、音が聞こえない」という光景に見えました。

 

どういうことかというと、このカードから聞こえる音を想像すると、正位置の場合、彼らの棍棒がぶつかり合う、コン、カン、といった音が聞こえそうです。しかし、それが逆位置になると、彼らの棍棒はぶつかることがなく、切磋琢磨できないという状況だと読むことが出来ます

 

棍棒がぶつかり合う音は、チームでの「会話」に重ねることができます。つまり、私が感じていたのはまさしく、自分が振った棍棒に、誰も反応してくれないということでした。誰かが反応してくれれば、ぶつかり合った棍棒が音を立て(=会話が生まれる)たでしょう。

 

このように、「カードからどんな音が聴こえそうか」という視点は、あまり言及されることがないものの、重要な視点の一つなのではないかと思います。波の音や鳥の声、足音や会話など(足音と会話は、それぞれどんなものかを想像するとよりリーディングが豊かになりそうです)、自分の想像力をはたらかせ、カードが発する様々な「声」を聴きとってあげたいですね。

他人に嫌われることを自分に許す

Eduardo VieiraによるPixabayからの画像

 

みなさん、いかがお過ごしですか? あまりにマイペースな記事の更新ですみません😅

 

私は、この春新卒として入社してから2か月が経ちました。会社の上司や同期の方は驚くほど親切な方ばかりなのですが、私は人の顔色や場の雰囲気を過剰に気にして、ぎこちない振る舞いになってしまうことがよくあります。

 

最近「私はなぜこんなに人の顔色を窺ってしまうのだろう」と考えていた時に気が付いたのは、「『一人残らず誰からも好かれないとダメ』と自分自身に命じていたのではないか?」ということでした。

 

もちろん、人間がコミュニティに生きる存在である以上、他人に嫌われることを恐れるのはある程度当然のことです。しかし一方で、「文字通り『全員』から嫌われない」ということが不可能なことも事実です。もっと言えば、どんなに頑張っても、絶対に嫌う人も必ず一定数存在します。

 

自覚していませんでしたが、これまで私が頑張っていたのは、「私を嫌いになる人を一人も出さない」ということでした。だから、なにをするにも「これは他の人にどう思われるかな」ということばかり考え、空気を読みすぎて結局変なタイミングで発言してしまうなど、空回りしていました。そして、後で空回りした自分のことを思い返して恥ずかしくなり、ますます人の前で臆病になる、ということの繰り返し……。

 

「『誰からも嫌われてはダメ』と自分自身に命じていた」ということに気が付いた時、私は「もう誰かに嫌われてもいいよ」と自分自身に声をかけてみました

そうして嫌われることを自分に許してあげた瞬間、体からどっと力が抜けて、「あ、嫌われてもいいんだ! もう嫌われることを心配せずに振る舞っていいんだ」と解放されたような気持ちになりました。次に出社するときは、もう好きなタイミングで笑って、好きなタイミングに話に加わっているだろうと思います。

 

私が「誰からも好かれる」ことと引き換えに失っていたのは、「自分から好かれる」ということでした。行動の基準が、自分自身の気持ちではなく、他人の機嫌だったのだから、それも当然です。

どんなに頑張っても、絶対的なものにはできない他人からの印象よりも、自分自身という、私にとって絶対的な存在に好かれることの方が、ずっと意義があると思うのは私だけでしょうか? 「他人に嫌われることを自分に許す」ということは、自分自身に好かれることのはじまりでもあるのだと思います。